2026年10月、ね、第 3 週ですかね、17 日、18 日、と、かなり、フランスでまた、ショッキングな出来事が起きているようだぞ、というのが、共有されているんですが、店舗が略奪され、公共施設が破壊され、警察と群衆が衝突する映像が次々と流れてきていましてですね。
こうした映像を眺めていて、最初に考えたのは、いったい誰が得をするのだろう、ということで。
もちろん、社会に対する不満があることは理解できるし、物価は上昇し、公共サービスは十分に機能せず、将来への展望を持てない人々もいると思うし。
しかし、それがなぜ店舗の略奪や公共施設の破壊につながるのか、ていう。
さらに、こうした混乱が複数の国で生じているとすれば、その背後に何らかの政治的な意図がある可能性もあるのでは? と勘繰ってしまったり。
仮にそうだとして、ヨーロッパを混乱に陥れることには、どのような経済的利益があるんですかね。
そんなことを考えているうちに、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの『帝国』、そして「マルチチュード」という概念を思い出したり。
しかし、最終的に行き着いたのは、もう少し身近で、おそらく身も蓋もない問い。
人間は、必ずしも経済的利益のためだけに行動するわけではないのではないか。単に、自分にとって居心地のよい状態を作ろうとしているだけなのではないか。
ということで、真面目モードで、そのことについて書きたいと思います。
フランスでは何が起きているのか
まず、確認できる事実を整理しておきます。
2026年10月17日、フランス各地で生活費の高騰や公共サービスの悪化に抗議する大規模なデモが行われました。
この抗議活動には、学生、労働組合、2018年の黄色いベスト運動に参加した人々など、さまざまな集団が加わりました。
参加者数は、当局発表で約55万人、主催者側の主張では約80万人とされています。
大部分の参加者は平和的にデモを行いましたが、一部では暴力的な衝突や略奪が発生しました。
パリ、リヨン、マルセイユなどの都市で警察との衝突が起き、リモージュでは市庁舎が放火によって大きな被害を受けました。
10月19日のロイター報道によれば、政府は週末を通じて約2,400人が逮捕され、3,000以上の店舗が略奪や破壊の被害を受けたと説明しています。
これらの数値は報道時点のものであり、今後修正される可能性があります。
政府関係者は一部の暴力行為について極左勢力などの関与を指摘しています。しかし、これはデモ参加者全体が極左勢力に属しているという意味ではありません。
また、暴力行為の実行者、政治的要求を掲げる参加者、混乱に乗じて財物を奪う人々を、同一の集団として扱うべきでもありません。
ここで確認できるのは、社会的・経済的不満を背景とする大規模な抗議活動が、一部で暴動や略奪に発展したということです。
では、なぜそうなったのでしょうか。
陰謀論的な仮説を、あえて考えてみる
ここからは、事実の紹介ではなく仮説です。
フランスの暴動を見ていると、こうした混乱を意図的に拡大させたい勢力が存在するのではないか、と考えたくなります。
例えば、ヨーロッパの政治的安定を損ないたい外国政府や、国内の政権交代によって利益を得る政治勢力などです。
ただし、ここでいう陰謀論的な仮説は、必ずしも秘密組織が暴動参加者全員に指令を出している、というものではありません。
そのような中央集権的な組織を想定する必要はないからです。
すでに存在する社会的不満を増幅させる。過激な言説を流通させる。対立する集団の不信感を強める。あるいは発生した暴動を特定の政治的物語に結びつける。
こうした行為でも、社会の混乱を拡大させることは理論上可能です。
そして、重要なのは、暴動を引き起こした主体と、暴動から利益を得る主体が同じとは限らないという点です。
例えば、自然発生した暴動を「極左勢力による組織的な破壊活動」として宣伝すれば、治安維持を強調する政治勢力が支持を拡大するかもしれません。
この場合、暴動を自ら組織しなくても、暴動の政治的な意味づけを操作することで利益を得られます。
政治的な争点の設定や、事件の解釈を方向づけるフレーミングは、政治コミュニケーション研究でも扱われている現象です。
もちろん、こうした可能性があることと、今回それが実際に行われたことは別問題です。
10月21日のEuronewsの検証記事も、外国勢力による情報面での便乗と、外国勢力が暴動そのものを引き起こしたという主張は区別しています。後者を裏づける証拠は確認されていません。
陰謀論を事実として受け入れることはできません。
しかし、仮に背後で混乱を拡大させようとする主体が存在するとしたら、その主体には何の利益があるのかと考えること自体は、合理的な問いだと思います。
仮説が正しいとして、経済的インセンティブは何か
国家間の対立を考えるとき、まず思い浮かぶのは資源の獲得です。
帝国主義の歴史には、領土、鉱物、農地、港湾、交易路などの確保という明確な経済的動機が存在してきました。
現代の地政学的な対立についても、資源や交通の要衝という観点から考えることができます。
例えば、ウクライナには肥沃な農地があり、黒海へのアクセスという戦略的価値もあります。
台湾をめぐる緊張には、軍事・安全保障上の要因に加えて、東アジアの海上交通や先端半導体産業などの問題が関係しています。ただし、こうした要因だけで各国の政策を説明できるわけではありません。
では、ヨーロッパを混乱に陥れることには、どのような利益があるのでしょうか。
ヨーロッパには高度な産業、巨大な市場、金融機能、技術、研究機関、交通インフラが存在します。
しかし、これらの多くは、社会が安定していることによって価値を維持しています。
高度な製造業を獲得したいなら、工場だけでは足りません。熟練した労働者、物流、電力、取引先、法制度などが必要になります。
金融市場を利用したいなら、予測可能な法制度や取引環境が不可欠です。
ヨーロッパの経済的価値の多くは、単なる土地そのものにあるのではなく、そこに暮らす人々が構築してきた社会的・経済的な関係の総体にあるわけです。
その関係を破壊してしまえば、獲得したかったはずの価値も失われかねません。
もちろん、ヨーロッパにも石油、天然ガス、鉱物資源、重要な港湾や海峡など、地理的・物理的な資産はあります。
しかし、それらを獲得する目的だけでヨーロッパ全域に社会的混乱を引き起こすことが、費用に見合う戦略なのかは疑問です。
それよりも、考えられるのは相対的な利益です。
ヨーロッパの政治が不安定になれば、安全保障や外交に割ける資源が減るかもしれません。
域内の政治対立が深まれば、対外政策について合意を形成する能力が弱まるかもしれません。
市場の不安定化によって、特定の投資家が利益を得る場合もあるでしょう。
ただし、これらは間接的で不確実な利益です。混乱の波及は予測が難しく、仕掛けた側に不利益が及ぶ可能性もあります。
したがって、ヨーロッパを不安定化させる合理性があるとしても、それは古典的な領土獲得型の帝国主義とは異なるものです。
帝国と「最悪な」マルチチュード
ここで思い出すのが、マイケル・ハートとアントニオ・ネグリの『帝国』です。
彼らが論じた「帝国」は、単一の国家が他国を征服するという古典的な帝国主義とは異なります。
それは、国家、企業、国際機関、法制度、金融、情報ネットワークなどを通じて作用する、国境を越えた権力秩序です。
この枠組みでは、支配する側も、抵抗する側も、必ずしも単一の国家や組織に還元できません。
そして、彼らが提示した重要な概念が「マルチチュード」です。
マルチチュードとは、簡単に言えば、共通の単一的なアイデンティティに統合されない、多様な人々の集合です。
労働者、移民、学生、失業者、さまざまな文化的背景を持つ人々が、それぞれの差異を保持したまま、共通する何かを生み出す可能性を持っています。
ハートとネグリにおいて、マルチチュードは単なる無秩序な群衆ではありません。新しい民主主義や協働の可能性を担う、政治的な主体として考えられています。
しかし、今回の暴動を見ながら、私は少し意地の悪いことを考えました。
もしマルチチュードが、民主主義や解放へ向かうのではなく、単にそれぞれの欲望を充足させる方向に動いたらどうなるのでしょうか。
誰かは政治制度の改革を求めている。
誰かは警察への怒りを表現している。
誰かは仲間との一体感を求めている。
そして、誰かは単に商品を盗みたいと考えている。
それぞれの動機は異なり、統一された目的も存在しません。
それでも、ある時点で行動が重なり、巨大な集団的な現象を生み出すことがあります。
私はこれを、あえて「最悪なマルチチュード」と呼んでみたくなりました。
もっとも、これはハートとネグリの概念を正確に適用した表現ではありません。むしろ、彼らがマルチチュードに見いだした政治的可能性を反転させた、批判的な比喩です。
多様な個人が単一の意志へ統合されないという特徴は、必ずしも望ましい結果を保証しません。
それぞれの人間が自分なりの合理性に従って行動した結果、社会全体には破壊的な結果が生じることもあります。
誰も全体を統率していない。
誰も全体としての結果を望んでいない。
しかし、集団としての行動は成立してしまう。
そう考えると、暴動の背後に巨大な陰謀を想定しなくても、暴動が発生すること自体は説明できそうです。
経済的インセンティブを超えて――個体としての居心地のよさ
では、個々の参加者はなぜ暴動に加わるのでしょうか。
ここまで、経済的な利益を中心に考えてきました。
しかし、そもそも人間の行動をすべて経済的利益に還元する必要があるのでしょうか。
例えば、職場に4人のチームがあるとします。
そのうち1人が横柄な態度を取り、ほかの3人が面倒な衝突を避けるために従うようになったとします。
この場合、正式な上下関係は存在しません。
それでも、横柄な人の要求は通りやすくなり、周囲の3人は不満を抱えながらも譲歩を続けます。
集団全体としては、必ずしも望ましい状態ではありません。
しかし、横柄な人にとっては居心地がいい。
そして、残る3人にとっても、少なくとも短期的には、相手と衝突するより従う方が楽かもしれません。
誰かが意図的に不合理な組織を設計したわけではないのに、結果として不合理な関係が維持されます。
これを暴動に置き換えると、どうでしょうか。
暴動への参加者が、必ずしも社会制度を改革したいわけでも、経済的な利益を獲得したいわけでもないとしたら。
仲間と一緒に行動することが楽しい。
普段は感じられない力を感じる。
社会のルールに従わなくてよい瞬間が心地よい。
自分が無視されない存在になったように感じる。
こうした主観的な報酬が、行為そのもののなかに存在する可能性があります。
もちろん、これはすべての暴動参加者に当てはまる説明ではありません。実際の動機を知るには、当事者への調査が必要です。
それでも、ここには重要な論点があります。
私たちはしばしば、暴動のような破壊的行動に対して、「そんなことをして何になるのか」と問いかけます。
それは、現在の行動が将来の利益を得るための手段である、という前提に立った問いです。
しかし、参加者にとっては、その行動をしている瞬間に、すでに何らかの報酬を得ているのかもしれません。
そうだとすれば、「何になるのか」という問い自体が、少し的外れになってしまいます。
ヒトという生物個体にとっての合理性
この問題は、さらに生物学的な観点からも考えられます。
人間は社会的な動物です。
集団に所属すること、仲間から承認されること、自分の地位を確保することなどは、人間の行動に大きく関係します。
ただし、ここで注意したいのは、生物学的な適応と、主観的な快適さは同じではないということです。
ある行為が本人にとって心地よいからといって、それが生存や繁殖に有利であるとは限りません。
また、個人にとって利益があるからといって、その行動が人類という種にとって利益になるわけでもありません。
ここで私が考えたいのは、進化論的な意味での適応度ではありません。
もっと単純な話です。
ある人間が、ある状況において、自分にとって心地よい行動を選択する。
その選択が、社会全体にとって望ましいかどうかは、別の問題です。
例えば、誰かに威圧的に接することで、自分の要求を通せるようになった人がいるとします。
周囲の人々は不快になるでしょう。
職場の生産性も下がるかもしれません。
それでも、その人自身が満足しているなら、少なくとも本人の主観的な評価においては、望ましい状態が成立しています。
暴動についても、同じように考えられるのではないでしょうか。
もちろん、個人の満足がその行動を倫理的に正当化するわけではありません。
誰かにとっての居心地のよさが、別の誰かの安全や財産を侵害してよい理由にはなりません。
しかし、行動を倫理的に評価することと、行動がなぜ生じるのかを説明することは、区別しなければなりません。
破壊的な行動が本人にとって何らかの報酬をもたらすのであれば、社会的には不合理に見える行動も、個人の主観的な合理性から説明できる余地があります。
そして、それぞれの個人が自分にとっての快適さを追求することで、集団全体としては不快で危険な状態が生じることもあります。
誰も得をしないように見える社会現象
最初の問いに戻ります。
フランスの暴動は、誰の利益になるのでしょうか。
外国政府かもしれません。
国内の政治勢力かもしれません。
暴動に乗じて略奪を行う人かもしれません。
しかし、こうした利益の受益者が存在することは、その人物や組織が暴動の原因であることを意味しません。
さらに言えば、暴動の原因を説明するために、必ずしも集団全体としての受益者を特定する必要もないのではないでしょうか。
それぞれの人間が、それぞれの事情によって行動する。
誰かは政治的な変革を求め、誰かは不満を表明し、誰かは仲間と行動すること自体に満足を感じる。
こうした異なる行動が、ある条件のもとで同じ方向へ重なったとき、大きな社会現象が生じます。
そこには、集団全体を導く単一の目的も、すべてを操る主体も存在しないかもしれません。
私は最初、暴動を理解するために、帝国主義的な資源獲得や、地政学的な経済利益を考えました。
しかし、考えを進めるうちに、それだけでは説明できない部分が見えてきました。
人間は、自分にとって居心地のよい状態を求めて行動する。その結果として、誰にとっても居心地がよいとは言えない社会が生まれる。
もしかすると、暴動を理解するために必要なのは、巨大な陰謀を発見することではなく、そうした個々の人間の行動が、どのように集団的な秩序や無秩序を生み出すのかを考えることなのかもしれません。
そして、その説明が成立するとしても、なお別の問いが残ります。
人間がそれぞれの居心地のよさを追求することと、他者とともに暮らせる社会を維持することを、私たちはどのように両立させるのでしょうか。
それは暴動だけでなく、職場や組織、そして日常のささいな人間関係にも共通する問題なのだと思います。
参考資料
- AP News(2026年10月17日)「フランスの生活費高騰に対する抗議活動」
https://apnews.com/article/france-school-protests-yellow-vest-44b9d3ba91ffad4029f975dced7e31cb - Reuters(2026年10月19日)「France in turmoil: What might follow a weekend of riots?」
https://www.marketscreener.com/news/france-in-turmoil-what-might-follow-a-weekend-of-riots-ce785cdbdd89f72c - Euronews(2026年10月21日)「No evidence foreign powers sparked Europe’s riots, but they exploited them」
https://www.euronews.com/2026/10/21/france-and-italy-blame-foreign-powers-for-riots-but-wheres-the-evidence - マイケル・ハート、アントニオ・ネグリ『帝国』(Empire, 2000)
- マイケル・ハート、アントニオ・ネグリ『マルチチュード』(Multitude: War and Democracy in the Age of Empire, 2004)
本記事は2026年10月22日時点の報道をもとにした個人的な考察です。事件に関する事実、政治的な仮説、社会哲学的な解釈は区別して記述しています。
