忘却という美

コラム・エッセイ

自分にとってけっこうツラいことが起きたとき、そしてそれがある種、程度の差はあれ憎しみとして表出してしまったとき、その情念の対処に困ることがあります。

端的に言えば、何らか競争に負けたであるとか、暴力・暴言を受けたとか、あるいは裏切られたとか、親しい関係が解消されたなどなどですね。

そういうとき、カタカナだと「ネガティブ」という言い方がありますが、どうも「ネガティブ」で片付けてしまう何だか弱いし、しかし憎しみと言えば強すぎる、悔しいとも違う、悲しいでも物足りない、そういったやはり「如何ともしがたい」情念。

そして難しいのは、それへの対処。

実行として最も簡単だが、しかし醜く、本来的な対処にならないのは、「如何ともしがたい」情念の対象へ、直接的に反応することでしょう。

どいうことかというと、例えばある人物Aから、罵詈雑言を受けたとします。それに対し、私も、人物 A に対し罵詈雑言を与えるとします。

しかし罵詈雑言を発するという行為は、決して褒められたものではなく、というのも人物 A から罵詈雑言を受けた私は、「如何ともしがたい」情念状態であり、「如何ともしがたい」情念状態は好ましくないと認識していながら、私が A へ罵詈雑言を与えることは、けっきょくは私が A と同じ水準の人格になってしまうということです。

A は、私を「如何ともしがたい」情念状態へ陥れました。私は「如何ともしがたい」情念状態を好ましく思っておらず、さらに、「如何ともしがたい」情念状態へ私を陥れた A を、私は好ましく思っていません。そこで私が A を、A と同じ方法(この場合は罵詈雑言)で直接、「如何ともしがたい」情念状態へ陥れてしまっては、私は、私自身を、私が好ましくないと判断している A と同等の在り方へ措定してしまいます。

このようなことになってしまっては、私は、私自身を理不尽な、支離滅裂な在り方へ措定してしまうでしょう。

理不尽な・支離滅裂な在り方の是非はここではいったん問わず、理不尽・支離滅裂はここでは「好ましくない」と判断しましょう。

さて、ある人物 A から罵詈雑言を受けた私による、A へ対する反応としては、罵詈雑言を返すことが挙げられますが、しかしそれが理不尽かつ支離滅裂なのであれば、どのような反応が好ましいでしょうか。それは、やはり無反応です。

無反応の時点で、人物 A は、私に優越感を持つに違いありません。

しかし私は、人物 A へ直接の反応を返しませんが、しかし、例えば私自身が何らか成長する(成長した)姿を、人物 A が私から直接ではないかたちで見聞きしたとき、そしてそのときの私が人物 A よりはるかに充実した在り方であるとき、それで以って人物 A への返事になりえます。

より望ましいのは、私が成長する過程で、何らか人物 A を見返してやろうとか、もっと強い表現を使うと復讐してやろうとか、そういった気持ちに無自覚なまま、間接的に人物 A へ劣等感を与えることです。そして人物 A に劣等感を与えたということすら、無自覚であれば、さらに望ましいでしょう。要するに復讐の対象を忘れてしまうことです。

本来的には、復讐心が原動力となって私を成長させたとしても、私が自身の復讐心に無自覚であれば、そして復讐の対象を忘れていれば、その方が望ましい。美的であるとさえ言えるでしょう。これは私の中で、九鬼周造の「いき」の概念とも呼応します。

通常は、本来的で自覚的であることが望ましいように思えますが、こと、見返しや復讐といった点では、無自覚であること、忘れてしまうこと、そしてそのうえで結果的に見返しや復讐になってしまっていることが、望ましく、美しいように思えます。

・・・本当にそうでしょうか?

本当に、復讐の対象を忘れてしまっていいのでしょうか?

忘れてしまう時点で、それは重要な対象ではないのでは?

私の間接的な対象への去来が望ましいことは、私は認めます。

しかし、その際、対象に無自覚であったり、対象を忘れてしまったりしてしまうのは、対象が私にとって副次的だからではないでしょうか。

対象が私にとって本源的であるなら、無自覚や忘却は露現しないでしょう。

畢竟、忘れないこと、自覚的であることから、私は、逃れられないのです。

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