AI を 1 年間使いまくって気づいた、「私は文章を書くのが好き」ということ

ブログ術

約 1 年間、ChatGPT を中心に AI を使いまくって、それこそ、このブログの記事も数本、ChatGPT で書いたのですが、気づいたのは、私は文章を書くのが好きで、ChatGPT に頼るのは not for me だということ。

もちろん、職務上の文書作成なんかは、AI に書かせて、さっさと終わらせて効率化バンザイでいきたいところなのですが。

日記的なブログ記事とか、あとは音楽批評なんかは、やっぱり、自分で書いた方が楽しい。

なので、AI に任せる文書、自分が好きで書く文章、ていうのを、使い分ける必要があるな、と。

書くことには快楽があって、それは歩くこととか走ることとか身体を動かすのと同じで、おそらく、指先の運動というのもあると思うのだけど、それから、脳みその運動にもなっていると思う。

考えることも楽しくて、自分の足りない脳みそで考えて考えて考えて何か結論が出たときの快楽というのがデカい。

それは、肉体的に走るのが好きで、自動車で移動する方が 100 億マン倍速いのだけど、あえて自分の足を使う、のと似ている。

繰り返しになるけど、けっきょく、脳の活動というのも身体的なものなので、身体を動かすことで快楽を得られるタイプの人というのは、脳を動かすことでも快楽を得ているのだと思う。

で、脳を動かすことの例として、考えたり、書いたり、書くこととしての思考だったり、というのがあるのだけど、生成 AI を使っていると、どうしても、考えたり・書いたりという〈行動〉がおろそかになってしまう。

ちょうど、100 m 先のスーパーにも車で移動する、田舎のおばはんみたいに。

そしてじんわりじんわりと、遅効的に、書かないことの苦しみがのちのち到来する。

確かに、ChatGPT を使うことも快楽ではある。自分が考えお呼びもしなかったことを、ChatGPT は吐き出してくれる。生成 AI は、人類のあらゆる言葉を学習しているので、いわば人類の集合知なのであって、そこから溢れる自然言語は、個人をはるかに上回る知識量に基づいている。

その生成される様を眺めるのは、快楽である。

しかしその快楽は、のちのち後悔するタイプの、一時的な快楽だ。

私だってそれなりに生きてきたので、ChatGPT を眺めて得られるタイプの快楽が、どのようなタイプの快楽なのか、何となく想像できる。

そのとき、即時的な快楽を求めた結果、長期的にはマイナスに働くタイプの行動がある。

借金とかね。

ChatGPT は、即時的な快楽に似ている。

きっと、あまりにずぶずぶで使い続けると、そのうち何らか後悔すると思う。

ChatGPT で文章を作成していた時間を、もっと、自分で考えることに費やしていたらな、て。

私はすでに危惧していることがあって、おそらく文章構成能力、総合力というのが、落ちているのではないか、ということ。

私は最近、ブログ記事を書くときも、箇条書きでばばばッと書いて、それを ChatGPT に「ブログ記事に仕上げて」と頼む。あとは、ChatGPT にいろいろ質問して、最後に、「じゃあ、ブログ記事に仕上げて」とか頼む。

そしたらそこそこのブログ記事が生成されて、そしてそこそこのアクセスが集まるのだ。

そうなると人間、怠けるのが得意なので、最後に記事に仕上げる工程を ChatGPT に任せてしまう。と、文章作成能力がどんどん衰えていくのではないか、と、自分は危惧している。

もちろん、前に述べた通り、ビジネス文書作成とかは、ChatGPT に任せてしまってかまわないと思う。

ただ、そうではない、もともと快楽を得るための行動としての「書くこと」を、ChatGPT に任せすぎると、おそらく、のちのち後悔することになるだろう。

とは言え、最後に、ChatGPT を使いまくって得られた能力もある。それは、「的確に指示する」能力だ。対人間だと、曖昧な指示でも、その場の文脈・雰囲気で伝わることもあるが(伝わらないこともあるけど)、ChatGPT の場合、本当に自分の得たい回答を出力させる場合は、相当、プロンプトを工夫しなければいけない。

そのプロンプトの工夫は、「的確に指示する」能力のブラッシュアップに他ならない。質問力と言い換えてもいいが、指示力・質問力を高めるには、ChatGPT ほか、生成 AI は最適だろう。

以上の文章は、私が書いた。同じ内容の文章を、ChatGPT にも書いてもらったので(上の文章を ChatGPT にコピペして、「ブログ記事に仕上げて」を依頼)、そちらも記事を公開している。どちらが記事として「好み」か、比べてもらえたらうれしい。

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