『世界を変えた150の哲学の本』という本がある。アダム・フェルナー、クリス・メインズによる本書は、歴史上の重要な哲学書をビジュアル豊かに魅せてくれる図鑑的な本で、見るのも楽しい。
現代の哲学でどのような本が取り上げられているかを見ると、なんとコンマリが取り上げられている。彼女は、日本的スピリチュアルの系譜にいるようだ。鈴木大拙、上田閑照、コンマリといったところだろうか。そんなん言ったら怒られそうだが。
しかし、日本外から見れば、商業的成功を収めた思想家に分類されるようだ。
2010年代の思想といえば、新しい実在論がポスト・ポスト構造主義として、ブームとなった。メイヤスー、ハーマン、ガブリエル。ガブリエルは、現代の経済システムへの言及をしているが、新しい実在論ではまだ、存在論的なトピックが思想界隈の主流だった。
しかし2026年、新しい実在論から10年経った今、ただでさえきな臭い哲学・思想界隈が、さらにきな臭くなってきている。
彼らを何と呼ぼうか、と考えたとき、テック右派が、私にはしっくりくる。
本稿では、2026年、特に『ネオ君主論』や『テクノリパブリック』の邦訳が出版されたことで注目を集めているテック右派の議論を整理していきたい。
この流れにはいくつかの系統がある。カーティス・ヤーヴィンのように国家を統治システムとして徹底的に再設計しようとする立場があり、アレクサンダー・カープの『テクノロジカル・リパブリック』のように、テクノロジー企業が国家安全保障と結びつくべきだと主張する流れがある。さらに、パトリック・デニーンの『リベラリズムはなぜ失敗したのか』のように、そもそも近代リベラリズムが共同体を壊したのではないかと問う流れもある。方向は違っても、共通しているのは、いまの自由主義的な秩序に限界が来ているという感覚だ。
この見方の出発点には、現在の米国政治や戦後秩序への強い不信がある。戦後の国際秩序、官僚機構、大学、メディアといった制度は、かつてのような実行力を失っている。ヤーヴィンはこうした制度群を「大聖堂」と呼び、選挙で選ばれる政治家よりも強い、目に見えにくい権力ネットワークとして描く。ここで問題にされているのは、単なる陰謀論ではなく、説明責任を持たないエリート層が世論と制度を同時に形づくっている、という感覚である。
一方で、『テクノロジカル・リパブリック』が示すのは、テクノロジー企業の側から見た別の危機感だ。そこでは、AIやソフトウェアが単なる商業製品ではなく、国家の防衛や国力そのものに関わるものとして語られる。シリコンバレーは消費サービスだけを作る場ではなく、国家のためにハードパワーを支える場であるべきだ、という発想である。
これに対してデニーンは、『リベラリズムはなぜ失敗したのか』の中で、自由主義は成功したからこそ失敗したのだと論じる。個人の自由や選択を広げるはずだった仕組みが、結果として家族、教会、地域共同体、信頼関係を弱め、社会をばらばらにしたという見立てだ。つまり、ヤーヴィンやカープが「国家の実行力」を問題にする一方で、デニーンは「共同体の解体」を問題にしている。
国家を「会社」として見る発想
ヤーヴィン思想の特徴は、国家を株式会社のように捉える点にある。トップには強い権限を持つCEO型の指導者がいて、その下に取締役会のような監視装置がある。経営は一元化しつつ、チェック機能は別に置く。民主的な熟議よりも、実行と責任の分離を優先する考え方だ。
この発想は、国家を「みんなで合意形成する場」と見るよりも、「成果を出せる統治機構」と見る方向に近い。アポロ計画やマンハッタン計画のような、戦時体制に近い高効率な実行力がしばしば例として挙げられる。要するに、いまの国家は遅すぎるし、責任の所在も曖昧だという批判である。
さらに、国家の目的もGDPだけではなく、土地や建物、そして人間そのものの長期的価値をどう高めるか、という形で捉え直される。ここでは国民は単なるコストではなく「資産」として扱われる。言い換えると、国家の仕事は人を切り捨てることではなく、社会全体をどう維持し、繁栄させるかにある、という主張である。
テクノロジーで権力を縛る
こうした統治論は、単なる理念では終わらない。ヤーヴィン周辺では、権力をテクノロジーで制御する発想が繰り返し語られる。代表的なのが、ブロックチェーンや暗号技術を使って、統治者を解任できるようにする構想だ。さらに、核兵器の安全装置として知られるPALのような仕組みを、より広い兵器管理に応用すれば、正当な権限を持つ者だけが暴力装置を動かせる、という設計も想定されている。
この話はかなり極端に聞こえるが、ポイントは「独裁を無条件に肯定する」のではなく、暴力の実行権限そのものを制度と技術で固定したい、というところにある。ヤーヴィン思想では、統治者が強いことと、統治者が暴走しないことは両立しうる。そこを支えるのが、会社法のような発想と、暗号技術のような制約装置だ。
「大聖堂」とリベラリズムへの不信
この思想を理解するうえで重要なのが、リベラリズムへの強い反発である。ヤーヴィンやそれに近い論者は、米国の民主主義が実質的には機能不全に陥っており、大学・メディア・官僚機構が同じ方向を向いて世論を形づくっていると見る。そのため、一般的な意味での「民主主義」は、実態を隠す装飾語にすぎないという言い方になる。
ここには、パトリック・デニーンのようなポスト・リベラルの批判とも響き合う部分がある。経済的自由と文化的自由の両方が、結局は共同体や家族、地域社会を弱らせたのではないか。そうした疑問が、テック右派とポスト・リベラルの両方に共有されている。デニーンは、リベラリズムが個人を自由にしたように見えて、実際には市場と国家を肥大化させ、人びとを孤立させたと見る。
また、トランプ現象もこの文脈の中に置かれる。ヤーヴィン的な世界観では、トランプは強い指導者に見えて、実際には国内統治の実行力が十分ではない。外交では一定の力を持っても、国内政治では官僚機構を思うように動かせていない、という見方だ。つまり、問題は「誰が大統領か」だけではなく、「大統領にどれだけ実行力があるか」にある。
日本はなぜ参照されるのか
この議論の中で、日本はかなり重要な参照点になっている。ひとつは、ヤーヴィンが日本を「1945年以降、主権が制限されたままの国」と見ていることだ。米国を絶対的な親のように見る段階から離れ、自立のフェーズに入るべきだ、という比喩が使われる。ここでの日本は、米国中心の戦後秩序からどう距離を取るかを考えるための鏡として扱われている。
もうひとつは、三島由紀夫や満州国への関心である。テック右派の一部は、三島の身体性や、戦後日本の空虚さへの抵抗に強く反応している。さらに満州国は、腐敗した議会政治や行き詰まった近代化に対する、半ば実験的な「スタートアップ国家」として読まれることがある。もちろんこれは歴史的評価として慎重に扱う必要があるが、少なくともヤーヴィン周辺では、国家を再設計可能なプロジェクトとして見る視点がここに重ねられている。
この延長線上では、日本の鎖国や保護貿易、小さな商店や地域サービスのあり方まで、別の角度から評価される。効率だけではなく、社会の秩序や尊厳をどう守るかが問われている、という整理だ。ここでも、単に「日本礼賛」というより、近代化の中で何を守り、何を切り替えるべきかという議論が前面に出ている。
何が見えてくるか
ここまでをまとめると、テック右派の議論は次のように整理できる。
- 戦後秩序とリベラル民主主義への強い不信がある。
- 国家は「合意の場」よりも「設計可能なシステム」として考えられている。
- テクノロジー企業は、国家の防衛や統治と無関係ではいられないと見なされている。
- 実行力のある統治と、その暴走を防ぐ技術的な制御を両立させようとしている。
- 日本は、その議論を映す鏡として頻繁に参照されている。
つまり、ここで語られているのは単なる右派政治ではない。国家をどう作り替えるか、誰が権限を持ち、その権限をどう縛るのか、という統治設計の話である。
このあたりに、ヤーヴィン思想がシリコンバレーの技術文化と結びついて見える理由がある。思想の言葉で語られていても、発想の芯はかなりエンジニアリング的だ。国家は完成した制度ではなく、アップデートされるべきOSなのだという感覚である。
技術から人間を語ること
ここから先は、私自身の関心に引きつけて考えてみたい。
テック右派の議論を追っていると、どうしてもハイデガーを思い出してしまう。もちろん、ハイデガーと現在のテック右派は、結論だけ見ればまったく違う。ハイデガーは近代技術に深い警戒を示した。一方、『テクノロジカル・リパブリック』は、テクノロジーを国家や文明を支える積極的な力として語る。
しかし、両者には似ているところがある。それは、どちらも技術を単なる道具として見ていないことだ。技術を起点にして、人間とは何か、国家とは何か、文明とは何かを考えている。ハイデガーは、技術によって世界が「利用可能なもの」としてしか見えなくなることを問題にした。現代のテック右派は、技術によって国家や統治を作り直せると考える。片方は技術を疑い、片方は技術に期待する。しかし、どちらも技術から人間を語っている。
ここに、私は危うさと重要さの両方を感じる。
技術を起点にして人間を語ること自体は、避けられない。AI、監視、軍事、医療、労働、教育。いまや技術は、社会の外側にある道具ではない。技術は、私たちの生き方そのものを組み替えている。だから、テック右派の議論を「危ない思想」として片づけるだけでは足りない。むしろ、彼らがなぜこれほど国家や人間を技術から語ろうとするのかを、正面から考えなければならない。
ただし、そのときに絶対に落としてはいけない問いがある。
その「人間」とは、誰なのか。
その国家は、誰の国家なのか。
その自由は、誰の自由なのか。
そして、その技術によって守られる命とは、誰の命なのか。
ハイデガーを読むとき、避けて通れないのは「死」の問題である。人間は自らの死を引き受ける存在だという議論は、20世紀哲学の大きな主題だった。しかし、20世紀は同時に、大量殺戮の世紀でもあった。人間が番号で管理され、輸送され、処理されるように殺された時代だった。そこで問われたのは、単に「死とは何か」ではない。誰の死が、死として数えられるのか。誰の命が、人間の命として扱われるのか、という問いだった。
ここでデリダやジャンケレヴィッチ、レヴィナスが重要になる。彼らは、それぞれ違う仕方で、ハイデガー的な存在論の外側にある「他者」や「死」を問い直した。私の死だけではなく、あなたの死。他者の顔。他者への責任。こうした倫理の問題を抜きにして、技術や国家を語ることはできない。
テック右派の議論が危うく見えるのは、単に言葉が過激だからではない。むしろ、そこに実行力への強い意志があるからこそ危うい。国家をOSのように入れ替える、統治をエンジニアリングする、権力を暗号技術で制御する。こうした発想は、たしかに刺激的で、現在の制度疲労を前にすると魅力的に見える部分もある。
しかし、20世紀の悲劇は、思想が技術や国家と結びついたときに何が起こりうるかを示している。もちろん、現在のテック右派がそのまま20世紀の全体主義を繰り返す、という単純な話ではない。歴史はそんなに雑には繰り返さない。ただ、人間を抽象的な資産や人口や能力として扱い、国家を効率化の対象としてだけ見るなら、同じ種類の危険は何度でも戻ってくる。
だからこそ、テック右派を批判的に乗り越える必要があるのだと思う。技術を否定するのではない。国家安全保障や産業政策の重要性を否定するのでもない。むしろ、技術が人間と国家を根本から変えてしまう時代だからこそ、人間とは何か、命とは何か、死とは何かを、もう一度かなり真剣に議論しなければならない。
2026年にテック右派を考えることは、右派政治を観察することにとどまらない。それは、技術の時代に人間をどう定義するのかを考えることでもある。
もしそこで「人間」という言葉の中身を曖昧にしたまま、効率、国家、競争、勝利だけを語るなら、私たちはまた同じ場所へ近づいていくことになる。20世紀の悲劇を本当に繰り返さないためには、技術の問いを、倫理の問いへと接続しなければならない。
テック右派が突きつけているのは、実はその問いなのだと思う。


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